2ntブログ

2006年6月 奈良県田原本 母子放火殺人事件

この事件が報道されている中で、
一つだけ、気になっていることがある。
それは、少年と父親との「ある関係」。


少年は、奈良でも屈指の進学校、東大寺学園に
中学入試で合格している。
東大寺学園といえば、灘中学とまでは行かないまでも
関西では、それに次ぐクラスの超名門校と言われている。
そこに合格していると言うんだから能力もあっただろうし、
相当な努力をしてきたに違いない。
父親が医者と言う事もあり、息子の受験に関しては
相当な影響力を及ぼしてきたのでは?
と推測できる。

と、ここまではいいのだが。

少年は、16歳の高校生である。(2006年事件発生当時)
その少年の成績について、
父親が管理していたり勉強まで教えていたというのは、
僕にはどうも腑に落ちないというか、理解に苦しむ。
僕も含め、ごく一般的な高校生を考えてみるに、
高校生になってまで、親が子供の成績を管理したり、
子供に勉強を教えたりする事があるだろうか。
子供が、自分の成績を親に管理されていたり
親に勉強を教わる。
という事を日常的に許容していたのは
不思議に思えてならない。

白山神社側からの高塔山の桜。


そういう点を、色々考えてみて
少年の犯行に至るバックグラウンドみたいなもの、
犯行に至らしめた「情況」という物を考えてみた。



少年が、男の子である以上その成長段階において
程度の差こそあれ他の少年たちと同じく、
マザーコンプレックスとエディプスコンプレックス
を抱いてきたと思われる。
今回の事件に至る少年の情況は、
ここに深く依拠しているのではないか?
と考えている。

エディプスコンプレックスと言うのは、
母親を自分のものにしたいという欲望から、
母親が受け容れている父親に対し敵対心・対抗心を
抱く情況であり、
一般的には、成長段階において母親を独占しようとする欲望、
母親を独占し母親自身もそれを受け容れている父親と、
自分を同一化して、より強く母親を独占しようと試みる。
つまり、「母子愛」
に対する強い願望に自らを置く事になる。
その後、自分の強い願望にとり最も障害となる
父親の存在に気付き、父親を圧倒しようと言う感情を
抱きだす。
ところが、「家族」という単位でもいいのだが、
自分が生き続けて行く為に必要不可欠である共同生活を
継続しようと思えば、自ら父親と同じ様な役割を担い、
共同体を平和に維持する事など到底出来ない。
そのことをいやがおうにも理解する事になる。
自分にとって必要不可欠な共同生活を維持していく以上、
母親を独占したいという強い願望、即ち擬似「母子愛」と言える
そのものをタブーの領域としてしまわなければならなくなる。
最初、母親を独占したいという強い願望か
母親が受け容れている父親に自分を同一化しようと
タブーの領域を認めて無意識下に置かざるを得ず
「超自我」と言う形に醸成される事になる。
「超自我」というのは、ルールや規律や倫理という
コントローラーとして働き、
感情や欲望といったものを抑圧し、バランスを取っている。


件の少年の場合を考えてみると、少年も、自らの成長過程において、
上記の様な情況の変遷を辿ってきたはずである。
ところが少年が幼くして、父親は母親と離婚し
マザーコンプレックスを抱いていたにも関わらず、
それを昇華させようにも出来なくなってしまった。
中途半端な状態のまま母親に依存したい。
というだけの情況が残され、
そのまま、エディップスコンプレックスへと移行していく。
父親が放棄してしまった
「現実の母親」
に対しての
「依存したい」
という感情はあるものの、
それを母親を独占したい感情
「母子愛」に対する強い願望、
母親が受け容れている父親に、
自我を同一化させようとすること、
さらに、父親に対抗し圧倒したい。
それらが絡まりあって
無事に昇華させる事が
出来なくなってしまった。


少年は、誰しも自らの成長過程の中で抱く
「性的な」欲求・願望の対象であった母親を失い、
母を独占したいと言う願望に留まらざるを得なくなり、
母が受け容れていた父親と自我を同一化する過程で
ストップせざるを得なくなったのではないだろうか。
その事は、少年の小学校の卒業文集の中からも見て取れる。

少年はストップしたままの、中途半端なエディプスコンプレックス
のまま犯行時に至ったのではないだろうか。
高校生になっても、父親に自らの成績を管理される事に安心し
父親に勉強を教えてもらうという事を許容し続けたのではないか。
自我の成長過程における重要な要素である
エディプスコンプレックスが
中途半端なままで自我を父親と同一化できず
少年と父親との関係の中で維持されてきた
なのではないか。

そして。

父親と同一化するに留まってしまった
「超自我」

この手本は父親しかないのであり
規範、倫理、道徳イコール父親であるかのように自我を抑圧する。
ところが、中途半端なエディップスコンプレックスを経た
少年には欲求、願望を抑圧し続け、父と同一化する事によって生じてきた
「超自我」に対し自己防衛機能が働く事となる。

少年は
「父親の存在を排除する。」
という感情を抱きだし父親を
「消去」
自らの自我をリセットしようとする。
ところがそれは、
自らを父親と同一化し規範・道徳・倫理としてきた以上、
父親は、少年にとって「のっぴきならない」存在である。
父親を抹殺する事=父親に同一化
「超自我」へと昇華させてきた自らを
抹殺する矛盾に他ならない。
中途半端なエディプスコンプレックスで成長してきた少年は、
父親と同一化する事によって獲得してきた
「アイデンティティー」と
父親とは違う存在であるという
「ディファレンス」
が未分化な情況である為に、自己防衛機能の対象である父親を
抹殺する事が出来ず、
「その他」
に対象が向かった可能性が大きいと考えられる。

その対象とは父親が再婚した相手=義母と
父と義母の間に生まれてきた異母兄弟である。
幼くしての両親の離婚が原因で、マザーコンプレックス、
エディップスコンプレックスの契機となる存在であった
母親を失った。
それに加えて自らの「母子愛」の対象とは成り得ない存在の
義母を受け容れざるを得なくなった少年にとって、
父親の「性的対象」である義母とその結果、
生まれてきた異母兄弟に
ある種、歪んだ関係を持ち続けざるを得なかった。。

自分と父親を同一化する事で、
規範・道徳・倫理というトーテムとなって
欲求・感情を疎外する父親を抹殺し、
リセットしようとする、自己防衛機能が強くなってきた。
として、
父親を抹殺する事=自らを抹殺することと同一化されてしまう
という二重の位相関係の中で、少年の自己防衛は
自己を抹殺することはできずに別に対象を求める事になる。

自らが同一化してきた父親の存在を温存して権威を剥奪し、
共同生活における父親の圧倒的な支配を排除する為には、
現在の共同生活そのものを解体することに気づいた。。
そして、父親そのものを対象とする事なく、義母・異母兄弟を
抹殺する事で共同生活を解体し、自我をリセットしようとした
のではないだろうか。

ただ、ここに、相反する、もう一つの情況も考えられる。
少年は、父親と自らを同一化する事により
「超自我」へと昇華してきた。
父親の存在そのものが、規範、道徳、倫理であった。
その為に、少年は父親の支配下であり続けその事を受容してきた。
ところが、義母、異母兄弟の出現で自らが自我を確立してきた
共同体の多大なる変化まで強制y的に受容せざるを得なくなる。
義母・義兄弟は、少年にとって「性的対象=母子愛」の対象とは
成り得ずエディプスコンプレックスを昇華させるには至らなかった。
そして、そのまま成長せざるを得なかった少年にとっては
義母・義兄弟の存在こそが、父親と同一化する事によって獲得した
「アイデンティティー」
そのものを疎外する存在であったのではないだろうか。

少年が自らを父親と同一化する契機となったのは、
紛れもなく、少年の「母子愛」の対象である実母の存在である。
それを契機として、自らを父親と同一化する事により
「超自我」に昇華させ、自らの「アイデンティティー」を
確立してきた少年にとって、義母・義兄弟の存在は
少年が属さざるを得ない共同生活において、
自らの「アイデンティティー」を疎外する存在にほかならない
のではないだろうか。
そして、父親の支配に対する自己防衛が強く働くにつれ、
抹殺しようとする対象が父親から義母・異母兄弟に移行した。

これらの事については、今後、様々な材料を踏まえて、
何度も検証すべきだが2006年6月時点で少年を犯行に至らしめた情況を
推察してみた。

ただ、全ての男の子の成長過程で、
マザーコンプレックス、
エディプスコンプレックス
その何れも、自我確立上で、必要不可欠な要素であるし、
如いては、
「アイデンティティー」
「ディファレンス」
という必要不可欠な認識にも多大なる
影響を及ぼしている。

今回の事件は、これらの要素が複雑に入り乱れ、
少年の成長過程に多大なる影響を及ぼしてきたが為に、
必然的に発生したのではないか?
そう考えている。
関連記事