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原爆投下0分前‐小倉上空10時44分


戦争はいわば国家間で殴り合う喧嘩であり
その喧嘩は一人ではできない。
つまるところ相手が必ずいるものである。
以って敗戦国に対し戦勝国或いは複数の戦勝国が
一方的に裁くのは道理に適わず
当事国双方の責任者をこの席上に呼び
審理することこそ適うものと信ずる。
今般の戦争責任は天皇陛下にはなく私一人にある。
また開戦の責任という一点に絞れば資源のない国家を
さながら真綿で首を絞めるがごとく資源の補給路を断てば
生き残るためにやむなく侵出せざるを得ない状況になる。
この点において大日本帝国のみならず戦勝国にも
責任の一端がある。



180px-Tojo3.jpg
極東裁判において戦犯とされ絞首刑に処せられた
東條 英機 元 陸相兼首相
の主張より。

著作権は

http://www1.linkclub.or.jp/~oya-wm/index.html
制作者:望月 創一 氏にあり
その文章を加筆校正して
勝手に転載(ミラー)しています。

戦 捜 録
投下!!小倉上空10:44
今から10年前1998年平成10年8月9日に
<徳山工業高等専門学校土木建築工学科教授、
工藤洋三氏の講演が、北九州市小倉北区で開催された。



★原爆投下0分前!小倉上空10時44分★



マリアナ時間1945年8月9日午前10時44分、
B29ボックスカーは陸軍小倉造兵工廠上空に到達。
グーグルなどで地図検索するとわかるが
空爆された八幡は投下目標の陸軍造兵工廠とは
直線距離で数キロと離れていない。



目標への投下は
八幡空爆の煙と靄の影響で遂に実施出来なかった。
新型爆弾を納めた爆弾庫扉はすでに開かれていながら。
ボックスカーは投下を断念し長崎に向かうことになる。


(調べる人→北九州市役所付近目標、八幡はスペースワールド目標)


もし原爆が投下されれば被害は
小倉北区、門司区の一部、戸畑区、八幡東区まで
及んでいたことだろう。

そして一時間後。

第二目標であった長崎が壊滅。
“小倉”そして“小倉の身代わりとなった長崎”
その命運を分けたのは、いったい何だったのか?
二つの都市の状況を見比べる資料として、
最近見つかった原爆投下部隊の資料がある。


小倉について

小倉を取り巻く状況は、幸運としか言えない事ばかりが
起きている。
運命というものとは実に不思議なものだ。
小倉を救った出来事を列挙してみた。


前日、別部隊がナパーム焼夷弾で八幡(やはた)を空爆した★


日本にとって
B29、別名を空の要塞と言われる大型爆爆機は
実に特別な存在である。
中国四川省の成都基地。
から飛び立ったB29が日本への初空襲を行ったのが
マリアナ時間1944年6月16日。

*成都*
2008,04四川大地震があった四川省の首都。
蒼き狼、元帝国の始祖、チンギスハーンゆかりの場所でもある。


空爆されたのは日本の重工業の先駆けとなった
官営八幡製鐵所。



現在の新日製住金(株)八幡製造所で
敷地は現在の行政区で言うと
北九州市戸畑区の一部、
戸畑区八幡東区枝光から八幡西区陣山一帯、
対岸の若松区の一部
という広大な地域。
敷地内には鉄道が走り
総延長は門司港から鹿児島までの距離に匹敵する。
最盛期にはこの製鐵所構内で1万5千名が働いていた。
*ちなみにeroKappaは母方の祖父が関係者で
職場の階級が軍隊式だったように記憶している。

ちなみに祖父は伍長。
職場の現場チームの班長といったところか。
実際に八幡で空爆された世代、
現在70歳半ばになられる人々の中には
原爆の本当の目標は
「小倉(陸軍造兵工廠)ではなくこの八幡(製鐵所)だ」
と言う説が根強い。


この製鐵所は本来の目標である旧小倉造兵工廠より
西側に数kmの場所。
この日付と場所が大きな意味を持つことになる。
この初空獏は、アメリカ陸軍航空隊にとっては
非常に意義深いものだった。

マリアナ時間1945年6月。
航空隊はその成立一周年を記念して
同地への記念空爆を企画
同年同月16日マリアナのテニアン基地。
八幡製鉄所を目標とするB29空爆部隊はナパーム焼夷弾搭載を完了し、
待機していた。

(記念に空爆される方はたまったもんじゃないと思う。)

ところが。


離陸寸前、天候の理由で目標が同様の工業都市である阪神工業地帯の
現兵庫県尼崎市および大阪府大阪市北西部へと変更された。

非常に大規模記念空爆にふさわしいものを計画していたようで、
この日、大阪市の北西部と隣接する兵庫県尼崎市は
壊滅的被害を被る。
(首都圏ならば東京都大田区などの一帯と神奈川県川崎市を思い浮かべてほしい。)
そしてこれが妙に情緒的で可笑しい話なのだが、
航空隊は「八幡への記念空爆」を諦めることなくしつこく機会を窺う。
やっとその好機が訪れたのが1945年8月8日。

二日前。
広島に一発目の新型爆弾=原子爆弾=が投下された。
“二発目の第一目標候補である小倉市(当時)”
に対しては

“通常空爆を厳禁する命令”

が以前より下命されていた。
しかし。
ほんの数kmしか離れていない、同じ地域といってもいい八幡
に対しては空爆禁止命令が下令されていなかった

地図を確認してみればわかるが、小倉北区と八幡東区は戸畑区を
はさんで車でも10分くらいの距離で地域によっては直に接している。
それほど隣接している地域に別命令が下令されていた。

新型爆弾の空爆部隊は、その目的を厳重に秘匿された秘密部隊。
テニアン基地においても、他の通常空爆部隊との情報交換などの交流は一切なく、
通常空爆部隊には、
「9日に小倉に対し新型爆弾=原子爆弾を投下する。」
ことなど全く知らされていなかった。
軍隊というお役所組織の体質というか、このことが幸か不幸か
北九州市の運命を左右した。
もしも情報交換などが為されれば8日の八幡空爆は中止されていたはずだ。
そしての運命のマリアナ時間で1945年8月9日10時44分。
快晴。
ほぼ関門海峡をはさんで真向かいの位置にある山口県下関市彦島と
門司区風師山の西側地区、八幡東、戸畑から
小倉上空に立ち昇るキノコ雲が見えたのではないだろうか。
(旧小倉造兵廠は現在の北九州市役所庁舎から歩いても10分位。
八幡製鐵所工場のある八幡東と戸畑からの直線距離は3キロも離れていない。
しかしながら八幡は予定通りナパーム焼夷弾で空爆され、
それによって生じた火災煙は翌日まで消えなかった。
翌9日。

小倉上空に飛来したボックスカー号機長はこのように記録。


マリアナ時間10時44分 目標は地上の濃い靄と煙に隠された。



★空爆部隊は遅れた★


マリアナ時間昭和20年8月9日、午前10時15分
屋久島上空。
ボックスカー号は随伴する二機のうち、一機とは5分後に邂逅できたが
もう一機=写真撮影機が現れず、旋回していた。
(この特徴ある島は、逸れた場合の会合地点になっていた。)

空爆部隊は、爆弾搭載機と写真撮影機、
そして気象観測機の三機で構成。
観測機は、攻撃予定の一時間前に
目標の上空で気象情報を得、
搭載機に連絡する任務。
新型爆弾投下にあたっては、
完全目視による投下
を命令されていた。
天候の確認の後目標を定め、進撃する手筈。
その観測機は既に目標に向けて先行。
ボックスカーは撮影機をじっと待ち続ける。

無線によって得られた気象状況。

「小倉、低い雲量3、中高度雲無し。」

「長崎、好天だが雲量増加中」

目標選定をする機長に、前日の八幡空獏の影響が
伝えられていたかどうかは疑問

ボックスカー機長は目標を小倉に定める。

なかなか現れない撮影機との会合を諦め、
小倉に向けて進撃を開始。
ここで予定時間をかなりオーバーしていた。
遅延時間は約45分
この遅れがなかったら、八幡空襲の煙と靄は、
どのように小倉上空を覆っていたのだろう。


★投下条件を厳守した爆撃手★


貴重な新兵器の投下を万が一にも失敗しないがため、
投下に際しては厳しい条件が付けられてしまった。
放物線を描いて落下していく弾道を計算し、状況が設定されていた。
必中させるために、機長は機を同高度、同速度を保持しつつ
目標に対し一直線に進入。
爆撃手は、この直線飛行の間に
“投下目標を目視確認”
して投弾するように計画されていた。
つまり、ボックスカーは敵国軍都上空で、
高度9400m、
時速320kmで約70km
この距離を爆撃航程しなくてはならないかった。

運命のマリアナ時間 10時40分。
ボックスカーは大分県姫島上空から爆撃航程に入る。
約4分後に小倉上空到達。
しかし爆撃手が照準点の目視確認に失敗。
「地上の濃い靄と煙=前日の八幡空爆による煙と靄」
によって辛うじて造兵廠内の投下目標は覆い隠されていた。
ボックスカーは投弾の機会を逸し、虚しく目標直上を通過。
すると。
真上からは目標が目視確認出来た。
機長は
「進入角度を変え観測すれば、爆撃航程中でも目標捕捉可能である。」

と判断。
小倉の上空を離脱し再度爆撃航程をやり直す。

第一回目の進入角度から120度変更。

再進入。
失敗。

角度を変え再々進入。
失敗。

計3回失敗。
この間約45分間。
爆撃手の指は投下ボタンに何度掛けられたことだろう。

後日、小倉への投下失敗については、
「十分な爆撃航程が取れなかった。」
「照準点の目視が出来なかった。」
が理由として報告されている。
つまり一回目の失敗は爆撃手の目視失敗によるもの、
二、三回目の失敗は機長が爆撃航程を短縮してしまったこと及び
爆撃手の目視失敗によるものだった。
と想像できる。

目標方向への進入自体は目視により可能だった事から、
後の長崎と比べればかなり好都合な投下条件だったことは明らか。

“もし爆撃手が、照準を適当に見当をつけ投下釦を押していたら?

ありふれた“If=空想”だが、
実は小倉造兵工廠内のどの地点が「照準点」であったのか?
現時点では確認できていない為
想像を逞しくする事は非常に困難だ。
その幸運の地点がどこなのか?
今、誰にも解らない。

「爆撃手が厳密な投下条件に縛られていた為に救われた。」
といえるのではないだろうか。


現在、北九州市立中央図書館敷地内に、
この経緯を記念する平和希求の碑が
建立されている。
中央図書館は、昭和20年当時造兵廠の本部が
建っていた。
nagasakinokane1.jpg
あわせて設置されている鐘は
「長崎の鐘」
と呼ばれるもの。
この碑の前で毎年8月9日、
失礼な言い方かもしれないが
身代わりとなった長崎の原爆記念日。
投下時間に合わせ
慰霊祭が執り行われている。
長崎と北九州市というのは地形が似ている。
すぐ側まで海(湾)が迫り背後は山。
新型爆弾は
マリアナ時間12時02分。
大きなきのこ雲とその下で阿鼻叫喚の地獄
作りつつ長崎上空で爆発した。
長崎について
この長崎は、小倉に比べて実に不運な状況にあった。
まるで被爆のために残されていたかのようだ。




★米軍の大都市空爆目標から外されていたこと★


長崎の造船産業は、当初の空爆戦略では当然
目標とされていた。
実際、マリアナ時間 1944年8月11日には
中国からB29が飛来して空爆している。
しかしその後、
同地時間 1945年3月からの

「大都市を目標とした焼夷弾空襲=米軍お得意の無差別絨毯爆撃」

が始まると、兵器産業関係への空襲は後回しとなっていった。
北九州に比較して地形的に北九州より狭くレーダー観測が効きづらい長崎は、
尚更空襲を受けなくなってしまった。



★兵器工場空爆期間中に無傷だったこと★



兵器産業地への空襲は、45年6月20日以降に集中して行われ始めた。
長崎は造船所などがあり、当然狙われるはずの都市。
しかし空爆されなかった。
それは幸運な出来事のはず。

そう、7月までは。

マリアナ時間1945年昭和20年7月下旬。
新型爆弾の目標候補から外された京都の代替都市が選定されました。
その不運な都市がその時点まで“不運にも無傷でいた長崎”だった。



★反対が押し切られたこと★



1長崎は、山と海が複雑に入り組んだ、平地の少ない地形。
2この地形では、長崎の落とす(広島型原爆とは細部で異なる)予定の原爆破壊力限界が判別困難。
3どこを目標地点としても、破壊予想半径内に建造物が何もない地域がかなり含まれてしまう。
4多分に実験的要素を含んでいた新兵器の投下目標として不適切な都市だった。

それに比べ



広島
京都
小倉



は、まったく理想的な投下目標都市の形をしていました。

(ここからerokappa)
俗に京都や奈良は
「古都で文化財が多数あるから空爆対象外だった。」
と言う説が流布されていますが
それは後に米軍関係者が明かした話から日本人の妄想であったことが
判っている。
本題からは外れるが奈良は効果が少ないから外されたのである。
論理的思考を好むとされるアングロサクソン民族=狩猟民族が
そんなことを考えるだろうか。
もし当時の大日本帝国が降伏しない場合は京都ばかりではなく、
最終的には日本を滅亡させる?べく帝都東京
(この場合皇居と国家中枢のある千代田区)
に原爆を投下しようとしていたい。
(ここまで)

つまり、
1破壊予想半径の3kmが市街地にスッポリ入ること。
2適当に建造物が多く人口が多いこと。
3テニアン基地から近いこと。

という3つの条件を広島、京都、小倉は完全に満たす。
三都市以外に新潟も候補地として挙げられた時期もあったが、
新潟はテニアン基地から遠く、目標として貧弱?であり、
7月までには除外された。
突然長崎が候補地に入れられた後も、
その不規則な地形を考え、
常に第二、第三候補とされていた。

「なぜ京都でなく長崎なのだ?」

米軍内部でも長崎が目標なのを不満とする考えが
多かった。
空爆部隊の責任者の
ある少将が、ポツダム会議に出席中のトルーマン大統領に
「京都を空爆させて欲しい。」
と直訴したほどだ。

4小倉では投下されなかった。

小倉では、投下に際しての厳命
「完全目視下において照準、投下すること。」
を守り、3回試みたあと、投下を断念した。
機長は
・テニアンに戻る
・第二目標の長崎に向かう
どちらかひとつの選択を迫られ、
そして長崎への飛行を開始。
がしかし。

5厳命を無視して投下された

ボックスカーが長崎上空に到着した頃
既に雲量はかなり増加していた。
目標(市街地)へと接近するにも、
目視ほぼ不可能
終始レーダーを使用しなければならなかった。
目標上空に達しても、数秒間しか目標を
視認出来なかった。
もちろん、厳命に従えば投下を断念するべき状況。
ここで問題が持ち上がる。

このまま帰投すると、
原爆を積んだまま着陸することになる。
どのような不具合が生じるのか不明で危険極まりない。
さりとて。
海上に投棄するなど論外。
下手をしたら、
これが最後の一発なのだから。

マリアナ時間11時50分。
長崎上空に到達。

投下をためらいつつ飛行中、
小倉では厳命を厳守した爆撃手が、ここでは
わずか20秒間だけ雲間から現れた工場地帯を目標と認め、
マリアナ時間11時58分
投下。
爆撃手の気まぐれというか状況が
切羽詰っていたのではないだろうか?
マニュアルにない状況での慌ただしい投下約1分後。
目標地点から大きく3kmほど北に外れ後に長崎型といわれる原爆は
大きなキノコ雲を見せ付けるかのように爆発した。
三方に山が迫る、非常に狭い地域で。

・・・本来の目標は市街地真中。

実際は、そこが原爆被災範囲の最南端となったのである。


(ここから原作者の感想)
米軍の情報、資料を基に当時の出来事を探ると、
自分がそれまで持っていた判断基準があやふやに
なってしまう時がしばしばあり、
実に奇妙な感覚を味わう。
そうなる度に思うのは、
“私は所詮日本人の視点しか持ち得ない。”
ということ。
小倉にて開催された講演を聴いているうちにも、
何回かそのような逆転感を感じたことを思い出す。
文中で、米軍の使用した時刻
(テニアン基地のあるマリアナ時間)
を用いているのは、その感覚を再確認したかったからです。
御了承下さい。

(以上ここまで。)
(ほぼ原文のまま。都市の位置関係などは掲載時から10年経過しており加筆校正した。)


最後にもう一度繰り返したい。

戦争はいわば国家の殴り合いの喧嘩であり
その喧嘩は一人ではできない。
つまるところ相手が必ずいるものである。
以って敗戦国に対し戦勝国あるいは複数の戦勝国が
一方的に敗戦国のみ裁くのは道理に適わず
当事国双方の責任者をこの席上に呼び
審理することこそ適うものと信ずる。
今般の戦争責任は天皇陛下にはなく私一人にある。
また開戦の責任という一点に絞れば資源のない国家を
さながら真綿で首を絞めるがごとく資源の補給路を断てば
生き残るためにやむなく侵出せざるを得ない状況になる。
この点において大日本帝国のみならず戦勝国にも
責任の一端がある。


極東裁判において戦犯とされ絞首刑に処せられた
東條 英機 元 陸相兼首相
の主張より
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